分子軌道法の入口
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なぜ分子軌道法を考えるのか
この講義の中心的な問いは、共有結合を「電子を共有する」という言葉だけでなく、波動関数の重ね合わせとして説明するにはどうすればよいかである。
価電子を原子に固定して考えると、結合の直感は得やすい。しかし、実際の分子では、電子は一方の原子だけに属するとは限らない。電子は分子全体に広がる状態として扱う方が自然な場合が多い。
分子軌道法では、原子軌道を材料にし、それらの線形結合として分子軌道を作る。分子の結合は、その分子軌道へ電子を入れたときに安定化が起こるかどうかで読む。
data/lecture/chemistry/theoretical/quantum-chemistry/変分法とLCAO近似-講義.n.md
data/lecture/chemistry/theoretical/化学結合の基本-講義.n.md
直感的な説明
2 つの波を重ねると、山と山が重なる場所では強め合い、山と谷が重なる場所では打ち消し合う。
原子軌道も波動関数なので、同じ考えが使える。同位相で足すと、核と核の間に電子密度が増える。この電子密度は二つの原子核を同時に引きつけるので、結合を強める。
逆位相で引くと、核と核の間に節が生じ、電子密度が減る。この状態に電子が入ると、結合を弱める。
LCAO近似としての分子軌道
2 つの原子軌道 \phi_A,\phi_B から分子軌道を作る。
\psi=c_A\phi_A+c_B\phi_B
ここで c_A,c_B は混ぜ方を表す係数である。
c_A\ [\mathrm{1};\ \mathsf{1}],
\qquad
c_B\ [\mathrm{1};\ \mathsf{1}]
同種二原子分子の最も単純な場合には、対称な組み合わせと反対称な組み合わせが自然に現れる。
\psi_+=N_+(\phi_A+\phi_B)
\psi_-=N_-(\phi_A-\phi_B)
N_+ と N_- は規格化定数であり、確率の総和が 1 になるように選ぶ。
\int |\psi_\pm|^2\,d\tau=1
結合性軌道と反結合性軌道
\psi_+ では、2 つの原子軌道が同じ符号で重なる。核間の電子密度が増えるため、電子が両方の原子核を引きつける。この状態はエネルギーを下げやすいので、結合性軌道と呼ぶ。
\psi_+\quad\Rightarrow\quad
\text{核間の電子密度が増える}
\psi_- では、2 つの原子軌道が逆の符号で重なる。核間に節が生じ、電子密度が減る。この状態は結合を弱めやすいので、反結合性軌道と呼ぶ。
\psi_-\quad\Rightarrow\quad
\text{核間に節ができる}
反結合性軌道には、記号として * を付けることが多い。たとえば、\sigma_{1s} に対応する反結合性軌道を \sigma_{1s}^* と書く。
エネルギーの分裂をどう読むか
2 つの原子軌道を混ぜると、通常 2 つの分子軌道が生じる。材料の数と結果の軌道の数は対応する。
2\ \text{atomic orbitals}
\longrightarrow
2\ \text{molecular orbitals}
低い方が結合性軌道、高い方が反結合性軌道である。この分裂は、永年方程式
\det(H-ES)=0
を解くことで得られる。したがって、分子軌道法は、化学結合の絵であると同時に、固有値問題でもある。
data/lecture/math/linear-algebra/固有値と固有ベクトル-講義.n.md
電子を入れる規則
分子軌道が得られたら、電子を低いエネルギーの軌道から入れる。
1 つの軌道には、向きの異なるスピンをもつ電子が最大 2 個まで入る。これはPauli排他原理に対応する。
同じエネルギーの軌道が複数あるときは、電子どうしの反発を小さくするように、まず別々の軌道へ入る。この規則はHund規則として整理される。
結合次数
分子軌道法では、結合の強さの目安として結合次数を使う。
\text{bond order}
=
\frac{N_b-N_a}{2}
ここで N_b は結合性軌道に入った電子数、N_a は反結合性軌道に入った電子数である。
N_b\ [\mathrm{1};\ \mathsf{1}],
\qquad
N_a\ [\mathrm{1};\ \mathsf{1}]
結合次数が大きいほど、単純な見方では結合が強く、短くなりやすい。結合次数が 0 なら、結合性と反結合性の効果が打ち消し合う。
具体例: \mathrm{H_2}、\mathrm{H_2^+}、\mathrm{He_2}
\mathrm{H_2} では、水素原子 2 個から電子が 2 個来る。この 2 個は低い結合性軌道に入る。
\sigma_{1s}^2
したがって、
N_b=2,\qquad N_a=0
である。結合次数は次になる。
\frac{2-0}{2}=1
これは、\mathrm{H_2} が単結合として安定しやすいことに対応する。
\mathrm{H_2^+} では電子が 1 個だけである。
\sigma_{1s}^1
したがって、
N_b=1,\qquad N_a=0
となり、結合次数は次である。
\frac{1-0}{2}=\frac12
電子 1 個でも、核間の電子密度を増やすため、結合は生じる。ただし、\mathrm{H_2} より弱いと読む。
\mathrm{He_2} では電子が 4 個ある。2 個は結合性軌道に入り、残り 2 個は反結合性軌道に入る。
\sigma_{1s}^2\sigma_{1s}^{*2}
したがって、
N_b=2,\qquad N_a=2
であり、結合次数は次になる。
\frac{2-2}{2}=0
このため、単純な分子軌道法では、\mathrm{He_2} は安定な結合を作りにくいと判断できる。
何が変わり、何が保たれるか
原子を近づけると、原子軌道は分子軌道へ組み替わる。このとき変わるのは、電子の状態の広がり、エネルギー、核間の電子密度である。
一方で、材料にした原子軌道の数と、得られる分子軌道の数は対応する。また、分子全体の電子数は保たれる。
波動関数の符号を変えると、干渉の仕方が変わり、結合性軌道と反結合性軌道の違いが生まれる。しかし、全体位相だけを掛ける操作では、|\psi|^2 は変わらない。
限界
この講義で扱った分子軌道法は、入口としての模型である。実際の分子では、基底関数の選び方、電子相関、原子核の配置、近似の水準が結果を左右する。
それでも、この入口の見方は重要である。なぜなら、分子全体に広がる波動関数、同位相と逆位相の重ね合わせ、結合次数という概念が、後続の有機化学や分光の理解にも使われるからである。
見分け方
分子軌道法の問題を見たら、次の順に読む。
- 材料になる原子軌道の数を確認する。
- LCAO近似で分子軌道を作る。
- エネルギーの低い順に電子を入れる。
- 結合性電子と反結合性電子の数を数える。
- 結合次数を計算し、結合の有無や強さを読む。
一言でいうと
分子軌道法は、電子を個々の原子に固定せず、分子全体に広がる分子軌道へ入れて結合を説明する方法である。同位相の重ね合わせは結合性軌道を、逆位相の重ね合わせは反結合性軌道を作り、電子の入り方が結合次数を決める。