水素原子と原子軌道
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なぜ水素原子を扱うのか
この講義の中心的な問いは、電子が原子核のまわりを回るという絵を、どのように波動関数の言葉へ置き換えるかである。
粒子箱モデルでは、端で消えるという境界条件が、許される波を選んだ。水素原子では、箱の壁ではなく、原子核の正電荷が電子を引きつけるポテンシャルエネルギーが条件になる。
重要なのは、原子軌道を電子の通り道と読まないことである。原子軌道は、水素原子のハミルトニアンが許す波動関数であり、その絶対値二乗が電子の確率密度を与える。
data/lecture/chemistry/theoretical/quantum-chemistry/波動関数と確率解釈-講義.n.md
data/lecture/chemistry/theoretical/quantum-chemistry/粒子箱モデル-講義.n.md
直感的な説明
古典的な絵では、電子は惑星のように原子核のまわりを回る。しかし、この絵は電子がどこに存在しやすいか、なぜエネルギーが飛び飛びになるかを自然に説明しない。
量子化学では、電子を点として追跡する代わりに、三次元空間に広がる状態として扱う。その状態を表す関数が
\psi(r,\theta,\phi)
である。ここで r は原子核からの距離、\theta,\phi は向きを表す角である。
r\ [\mathrm{m};\ \mathsf{L}],
\qquad
\theta\ [\mathrm{1};\ \mathsf{1}],
\qquad
\phi\ [\mathrm{1};\ \mathsf{1}]
s 軌道は球のように全方向へ同じ形で広がる。p 軌道は方向を持つ葉のような形をもつ。ただし、これは電子がその線の上を走るという意味ではない。|\psi|^2 が大きい領域を可視化していると読む。
厳密な設定
水素原子は、原子核 1 個と電子 1 個からなる。ここでは原子核を空間の原点に固定し、電子だけの運動を考える。この扱いは、原子核が電子よりずっと重いという事実に支えられている。
電子の質量と電荷を次のように置く。
m_e\ [\mathrm{kg};\ \mathsf{M}],
\qquad
e\ [\mathrm{C};\ \mathsf{IT}]
真空の誘電率と換算Planck定数は、次の単位と次元を持つ。
\varepsilon_0\ [\mathrm{C^2/(N\,m^2)};\ \mathsf{I^2T^4M^{-1}L^{-3}}],
\qquad
\hbar\ [\mathrm{J\,s};\ \mathsf{ML^2T^{-1}}]
原子核からの距離を r とすると、電子が受けるポテンシャルエネルギーは次である。
V(r)=
-\frac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r},
\qquad
V(r)\ [\mathrm{J};\ \mathsf{ML^2T^{-2}}]
単位の対応を確認すると、1/(4\pi\varepsilon_0) は Coulomb 定数に対応し、
\frac{1}{4\pi\varepsilon_0}
\ [\mathrm{N\,m^2/C^2};\ \mathsf{ML^3T^{-4}I^{-2}}]
である。これに e^2\ [\mathrm{C^2};\ \mathsf{I^2T^2}] を掛け、r\ [\mathrm{m};\ \mathsf{L}] で割ると、
\frac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r}
\ [\mathrm{N\,m};\ \mathsf{ML^2T^{-2}}]
となり、エネルギーの単位と次元に一致する。
ここでは r で割っているため、r=0 をそのまま代入しない。原子核の位置では、波動関数が物理的に許される振る舞いをもつことを別に要求する。
非相対論的なハミルトニアンは次である。
\hat H
=
-\frac{\hbar^2}{2m_e}\nabla^2
-\frac{e^2}{4\pi\varepsilon_0 r}
ここでLaplacianは空間について 2 回微分する演算子なので、
\nabla^2\ [\mathrm{m^{-2}};\ \mathsf{L^{-2}}]
である。したがって、運動エネルギー項は
\frac{\hbar^2}{2m_e}\nabla^2
\ [\mathrm{J};\ \mathsf{ML^2T^{-2}}]
となり、Coulomb 引力の項と同じくエネルギーの次元を持つ。
したがって、時間に依存しないSchrodinger方程式は次になる。
\hat H\psi=E\psi,
\qquad
E\ [\mathrm{J};\ \mathsf{ML^2T^{-2}}]
この形は、線形代数の固有値問題と同じである。違いは、行列ではなく微分演算子が関数に作用する点である。
data/lecture/math/linear-algebra/固有値と固有ベクトル-講義.n.md
なぜ球座標で分けるのか
水素原子のポテンシャルエネルギーは r だけに依存し、向きには直接依存しない。つまり、原子核を中心とする球対称な問題である。
この対称性に合わせて、波動関数を半径方向と角度方向に分ける。
\psi(r,\theta,\phi)
=
R(r)Y_l^{m_l}(\theta,\phi)
R(r) は原子核からの距離に関する部分であり、Y_l^{m_l} は向きに関する部分である。Y_l^{m_l} は球面調和関数と呼ばれる。
この分離は単なる計算技法ではない。球対称な条件では、距離で決まる広がりと、向きで決まる形を分けて理解できる、という構造を反映している。
data/lecture/math/multivariable-calculus/多変数関数の基本-講義.n.md
量子数の範囲
水素原子の解は、3 種類の量子数で整理される。
| 量子数 | 記号 | 許される範囲 | 主な意味 |
| 主量子数 | n | n=1,2,3,\ldots | エネルギーと広がり |
| 方位量子数 | l | l=0,1,\ldots,n-1 | 軌道の形 |
| 磁気量子数 | m_l | m_l=-l,-l+1,\ldots,l | 軌道の向き |
ここで n=0 は許されない。エネルギーが
E_n
=
-\frac{13.6\ [\mathrm{eV};\ \mathsf{ML^2T^{-2}}]}{n^2}
の形を持つため、n=0 では零による除算になる。また、波動関数としても規格化された物理状態を与えない。
l の範囲が 0 から n-1 までに限られることは、角度方向と半径方向の解が同時に規格化可能でなければならないことから出る。m_l の範囲は、空間を一周したときに波動関数が一価であることに関係する。
具体例: 1s と 2p を比べる
1s 軌道では、
n=1,\qquad l=0,\qquad m_l=0
である。l=0 なので角度方向の偏りがなく、球対称になる。Bohr半径を
a_0\ [\mathrm{m};\ \mathsf{L}]
とすると、1s 軌道の代表的な形は次である。
\psi_{1s}(r)
=
\frac{1}{\sqrt{\pi a_0^3}}e^{-r/a_0},
\qquad
\psi_{1s}\ [\mathrm{m^{-3/2}};\ \mathsf{L^{-3/2}}]
r/a_0 は長さを長さで割った量なので無次元量であり、指数関数の引数として適切である。
一方、2p 軌道では、
n=2,\qquad l=1,\qquad m_l=-1,0,1
である。l=1 なので向きをもつ形が現れる。たとえば 2p_z は、概略的に次の角度依存を持つ。
\psi_{2p_z}(r,\theta,\phi)\propto
r e^{-r/(2a_0)}\cos\theta
この式は、z 軸の方向と逆方向に電子密度が広がり、間に節面が現れることを示す。
何が変わり、何が保たれるか
n を変えると、エネルギーと軌道の広がりが変わる。水素原子では、同じ n をもつ状態は、細かな相互作用を無視すれば同じエネルギーをもつ。
l を変えると、軌道の形が変わる。s、p、d という名前は、主にこの l の違いを反映している。
m_l を変えると、空間での向きが変わる。外部磁場がない理想的な水素原子では、向きの違いだけではエネルギーが変わらないことがある。
全体位相を掛けても、確率密度は変わらない。
\psi\longmapsto e^{i\alpha}\psi
\quad\Rightarrow\quad
|\psi|^2\ \text{は変わらない}
限界と次への接続
水素原子は電子が 1 個なので、電子どうしの反発を考えなくてよい。このため、解析的に詳しく解ける。
多電子原子や分子では、電子どうしの反発が入るため、同じように閉じた形で解くことは難しい。そこで、水素原子で得た原子軌道を材料として、変分法やLCAO近似へ進む。
data/lecture/chemistry/theoretical/quantum-chemistry/変分法とLCAO近似-講義.n.md
見分け方
原子軌道を見たら、まず電子の通路ではなく、波動関数として読む。その形を見るときは、符号や節を確認する。電子の存在しやすさを見るときは、|\psi|^2 を確認する。
量子数が与えられたら、次の順で読む。
- n でエネルギーと広がりを読む。
- l で形を読む。
- m_l で向きを読む。
一言でいうと
水素原子は、原子核が作るポテンシャルエネルギーの中で、電子の波動関数が許される形を選ばれる問題である。原子軌道は電子の道ではなく、確率密度を生む状態の形である。