変分法とLCAO近似
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なぜこの方法を考えるのか
この講義の中心的な問いは、分子の波動関数を正確に解けないとき、どのように候補を作り、どの候補がよいかを判定するかである。
水素原子は電子が 1 個だけなので、比較的詳しく解ける。しかし、分子では複数の原子核と複数の電子が相互作用する。そのため、Schrodinger方程式を厳密に解くことは一般に難しい。
そこで完全な解を直接探すのではなく、候補を制限する。制限された候補の中で、エネルギーを最も低くする波動関数を選ぶ。この考えが変分法である。
LCAO近似は、その候補を原子軌道の線形結合として作る方法である。
data/lecture/chemistry/theoretical/quantum-chemistry/水素原子と原子軌道-講義.n.md
data/lecture/math/linear-algebra/線型結合と張る空間の基本-講義.n.md
直感的な説明
変分法は、地形の低い場所を探す方法に似ている。本当の地形を完全には歩けないので、歩く道を制限する。その道の中で一番低い場所を見つける。
このとき、道を広げれば広げるほど、本当の最低点に近づける。反対に、道が狭すぎれば、計算は簡単でも本当の低い場所を見逃す。
量子化学では、道に相当するのが試行関数の集合である。LCAO近似では、原子が持っていた原子軌道を材料にし、その混ぜ方を変えることで分子の波動関数を探す。
変分法の基本式
試行関数を \psi とする。\psi は零関数ではなく、規格化可能であると仮定する。
\psi\ne0
エネルギーの期待値は次の Rayleigh 商で与えられる。
E[\psi]
=
\frac{\langle \psi|\hat H|\psi\rangle}{\langle \psi|\psi\rangle},
\qquad
E[\psi]\ [\mathrm{J};\ \mathsf{ML^2T^{-2}}]
分母で \langle \psi|\psi\rangle による割り算をしているため、\langle \psi|\psi\rangle\ne0 が必要である。零関数を除外すれば、内積の正定値性によりこの条件は満たされる。
もし \psi が規格化されていれば、
\langle \psi|\psi\rangle=1
なので、
E[\psi]=\langle \psi|\hat H|\psi\rangle
と読める。
data/lecture/math/linear-algebra/内積空間の基本-講義.n.md
なぜ真の最低エネルギーより低くならないのか
変分原理は、任意の規格化された試行関数について、
E[\psi]\ge E_0
が成り立つという主張である。ここで E_0 は真の基底状態のエネルギーである。
理由を線形代数の言葉で書く。ハミルトニアンの規格化された固有関数を \phi_0,\phi_1,\phi_2,\ldots とし、エネルギー固有値を
E_0\le E_1\le E_2\le\cdots
と並べる。試行関数を
\psi=\sum_i c_i\phi_i
と展開でき、かつ規格化されているなら、
\sum_i |c_i|^2=1
である。このとき、
E[\psi]
=
\sum_i |c_i|^2E_i
\ge
\sum_i |c_i|^2E_0
=
E_0
となる。つまり、試行関数が作るエネルギーは、真のエネルギー固有値の重み付き平均であり、最低値より下には行けない。
LCAO近似
LCAO近似では、分子の波動関数を基底関数の線形結合として書く。
\psi=\sum_{i=1}^N c_i\chi_i
\chi_i は材料にする原子軌道や補助的な関数である。三次元の一電子の波動関数としては、典型的に次の単位をもつ。
\chi_i\ [\mathrm{m^{-3/2}};\ \mathsf{L^{-3/2}}]
係数 c_i は混ぜ方を表す無次元量として扱う。
c_i\ [\mathrm{1};\ \mathsf{1}]
この近似の本質は、無限に広い候補の空間から、\chi_1,\ldots,\chi_N が張る有限次元の空間へ探索範囲を制限することである。
有限次元の固有値問題への落とし込み
ハミルトニアンの行列要素を次で定義する。
H_{ij}
=
\int \chi_i^*\hat H\chi_j\,d\tau,
\qquad
H_{ij}\ [\mathrm{J};\ \mathsf{ML^2T^{-2}}]
また、重なり積分を次で定義する。
S_{ij}
=
\int \chi_i^*\chi_j\,d\tau,
\qquad
S_{ij}\ [\mathrm{1};\ \mathsf{1}]
d\tau は体積要素であり、
d\tau\ [\mathrm{m^3};\ \mathsf{L^3}]
である。したがって、S_{ij} は無次元量になる。
係数 c_i を変えると、試行関数そのものが変わる。したがって、Rayleigh 商も係数の関数になる。
E(\boldsymbol c)
=
\frac{\boldsymbol c^\dagger H\boldsymbol c}{\boldsymbol c^\dagger S\boldsymbol c}
ここで分母は波動関数の規格化に対応する。
\boldsymbol c^\dagger S\boldsymbol c
=
\langle \psi|\psi\rangle
非零の試行関数を考えるため、
\boldsymbol c^\dagger S\boldsymbol c\ne0
が必要である。さらに、基底関数が線形独立で、内積が正定値なら、\boldsymbol c\ne0 に対して \boldsymbol c^\dagger S\boldsymbol c>0 である。
この Rayleigh 商が停留する条件を求める。言い換えると、
\boldsymbol c^\dagger S\boldsymbol c=1
という規格化条件を課した制約付き最小化を考える。このとき E は制約条件に対応する Lagrange 乗数として現れ、停留点では Rayleigh 商の値と一致する。
複素係数では、\boldsymbol c と \boldsymbol c^* を独立に動かす形で考え、\boldsymbol c^* に関する停留条件を見る。
\frac{\partial}{\partial \boldsymbol c^*}
\left(
\boldsymbol c^\dagger H\boldsymbol c
-E\boldsymbol c^\dagger S\boldsymbol c
\right)
=0
この条件から、次の一般化固有値問題が出る。
H\boldsymbol c=E S\boldsymbol c
成分で書けば、
\sum_j H_{ij}c_j
=
E\sum_j S_{ij}c_j
もし基底関数が正規直交していれば、
S=I
であり、式は通常の固有値問題
H\boldsymbol c=E\boldsymbol c
に戻る。したがって、S は「基底関数どうしがどれだけ重なっているか」を係数空間の内積として記録する行列である。
である。非自明な係数 \boldsymbol c\ne0 を得るには、
\det(H-ES)=0
が必要である。これを永年方程式という。
ここで S が可逆であることは重要である。もし基底関数が線形従属なら、S は特異になり、係数の表現に冗長性が生じる。その場合は基底関数を整理する必要がある。
data/lecture/math/linear-algebra/固有値と固有ベクトル-講義.n.md
具体例: 同種二原子分子の 2 軌道モデル
同じ種類の原子 A,B から 1 つずつ原子軌道を取る。
\phi_A,\qquad \phi_B
最も単純な候補は、同位相の和と逆位相の差である。
\psi_+=N_+(\phi_A+\phi_B),
\qquad
\psi_-=N_-(\phi_A-\phi_B)
N_+ と N_- は規格化定数である。重なりを
S=\int \phi_A^*\phi_B\,d\tau,
\qquad
S\ [\mathrm{1};\ \mathsf{1}]
とすると、
N_+=\frac{1}{\sqrt{2(1+S)}},
\qquad
N_-=\frac{1}{\sqrt{2(1-S)}}
である。ここでは 1+S と 1-S で割っているため、S=1 や S=-1 では使えない。実際には、異なる中心にある独立な規格化軌道を扱う限り、ふつう -1<S<1 であり、分母は零にならない。
\psi_+ は核間の電子密度を増やしやすい。したがって、二つの核を電子が同時に引きつけ、安定化しやすい。これが結合性軌道である。
\psi_- は核間に節を作り、電子密度を減らしやすい。これは反結合性軌道である。
何が変わり、何が保たれるか
変分法で変えるのは、試行関数の形や係数である。保つべきものは、物理的に許される状態の条件である。
保つ条件には、規格化可能性、境界条件、対象の対称性がある。これらを満たさない候補は、エネルギーが低く見えても物理的な意味を失う。
LCAO近似で変えるのは、原子軌道の混ぜ方である。保たれるのは、材料にした基底関数の張る空間の中で解を探すという制約である。
限界
変分法は強力だが、選んだ候補の集合の外にある形は表せない。したがって、基底関数が少なすぎると精度が不足する。
基底関数を増やすと、表現力は上がる。一方で、行列が大きくなり、計算は重くなる。この精度と計算量の交換関係が、量子化学計算の基本である。
見分け方
式に
E[\psi]=\frac{\langle \psi|\hat H|\psi\rangle}{\langle \psi|\psi\rangle}
が出たら、候補の波動関数をエネルギーで評価していると読む。
式に
\psi=\sum_i c_i\chi_i
が出たら、無限次元の問題を、係数 c_i の有限次元の問題へ変換していると読む。
式に
H\boldsymbol c=ES\boldsymbol c
が出たら、重なり積分を含む一般化固有値問題として読む。
一言でいうと
変分法は、許される候補の中でエネルギーを低くする波動関数を探す方法である。LCAO近似は、その候補を原子軌道の線形結合として作り、永年方程式を通じて有限次元の固有値問題へ落とす方法である。