1. 内積の公理
内積の定義で重要なのは、「平面の点積で成立していた、長さと角度を扱うのに必要な性質だけを抽出する」ことである。
線型性があると、和や実数倍に対する計算が容易になる。対称性があると、「u と v の関係」を向きを交換しても同じ量として測定できる。正定値性があると、\langle v,v\rangle を長さの 2 乗として解釈しても矛盾しない。
実内積空間では、任意のベクトル u,v,w と実数 a に対して
\langle u+v,w\rangle=\langle u,w\rangle+\langle v,w\rangle
\langle au,v\rangle=a\langle u,v\rangle
\langle u,v\rangle=\langle v,u\rangle
\langle v,v\rangle\ge 0,\qquad \langle v,v\rangle=0 \Leftrightarrow v=0
が成立する。
2. 複素内積空間
複素ベクトル空間では、対称性をそのまま用いない。単純な対称性では \langle iv,iv\rangle の正定値性と整合しないため、共役を含む定義を採用する。
このノートの規約では、
\langle au+bv,w\rangle=a\langle u,w\rangle+b\langle v,w\rangle
\langle u,av+bw\rangle=\overline{a}\langle u,v\rangle+\overline{b}\langle u,w\rangle
\langle u,v\rangle=\overline{\langle v,u\rangle}
\langle v,v\rangle\ge 0,\qquad \langle v,v\rangle=0 \Leftrightarrow v=0
が成立する。実内積は、この複素内積から共役が不要になった場合として理解できる。
5. 内積から導出される重要な不等式
内積があると、コーシー・シュワルツの不等式
|\langle u,v\rangle|\le \|u\|\,\|v\|
が成立する。これは角度を定義したり、射影を考察したりするときの土台である。
証明の発想は、「長さの 2 乗は負にならない」という正定値性を用いることである。まず実内積空間では、任意の実数 t に対して
\|u-tv\|^2=\langle u-tv,u-tv\rangle
は 0 以上である。これを展開すると
\|u-tv\|^2=\langle u,u\rangle-2t\langle u,v\rangle+t^2\langle v,v\rangle
となる。これは t の 2 次式で、すべての t で 0 以上であるため、判別式は 0 以下である。したがって
4\langle u,v\rangle^2-4\langle u,u\rangle\langle v,v\rangle\le 0
すなわち
\langle u,v\rangle^2\le \langle u,u\rangle\langle v,v\rangle
である。ここで \langle u,u\rangle=\|u\|^2、\langle v,v\rangle=\|v\|^2 を用いれば
|\langle u,v\rangle|\le \|u\|\,\|v\|
を得る。
複素内積空間では、判別式による実数 t の議論だけでは不十分である。このノートの規約では第 1 変数が線型なので、v\ne0 のとき
\alpha=\frac{\langle u,v\rangle}{\langle v,v\rangle}
と置く。すると
\langle u-\alpha v,v\rangle=0
である。分母の \langle v,v\rangle は、v\ne0 と正定値性により正の実数なので、0 除算は起きない。また、このノートでは第 1 変数を線型にしているため、\alpha は上の形になる。第 2 変数を線型とする流儀では共役の位置が変わる。
この選び方により u-\alpha v は v に直交する。つまり、u を v 方向の成分と、それに直交する成分へ分けている。直交分解により
\|u\|^2=|\alpha|^2\|v\|^2+\|u-\alpha v\|^2\ge |\alpha|^2\|v\|^2
を得る。したがって
\|u\|^2\ge \frac{|\langle u,v\rangle|^2}{\|v\|^2}
となり、同じ不等式が成立する。v=0 の場合は自明である。
実内積空間では、u\ne 0,\ v\ne 0 なら
\cos\theta=\frac{\langle u,v\rangle}{\|u\|\,\|v\|}
と定義しても、コーシー・シュワルツの不等式によって右辺はかならず -1 から 1 の間に入る。したがって逆余弦を用いて角度 \theta を定義できる。つまりコーシー・シュワルツの不等式は、外形上は単なる評価式であるが、内積空間で角度を記述するための基礎そのものである。
複素内積空間では \langle u,v\rangle が一般に複素数であるため、\langle u,v\rangle/(\|u\|\|v\|) をそのまま \cos\theta として使用しない。複素数そのものは大小関係を持たず、逆余弦の入力として扱えないためである。複素の場合は、まず
|\langle u,v\rangle|\le \|u\|\,\|v\|
と直交性 \langle u,v\rangle=0 を基本にする。角度を導入する場合は、実部を用いるか、実内積空間として扱い直すかを明示する必要がある。