量子化学の入口
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なぜこの見方をするのか
この講義の中心的な問いは、分子の性質を、電子の状態とエネルギーから説明するには、何を数学的対象として置けばよいかである。
古典力学では、粒子の位置と速度を時々刻々追跡する。ところが、原子や分子の電子では、この見方をそのまま使うと破綻する。電子を原子核のまわりの小さな惑星のように考えると、電子がどの軌道を通ったかを知りたくなる。しかし、化学で実際に必要なのは、多くの場合、電子がどこに存在しやすいか、どのエネルギー状態が許されるか、分子がどの光を吸収するかである。
そこで量子化学では、電子の道筋を直接追う代わりに、電子の状態を表す。その状態から、位置の確率密度やエネルギーなどの観測量を取り出す。この転換が、量子化学の入口である。
\text{trajectory of a particle}
\quad\text{ではなく}\quad
\text{state and observables}
この講義では、次の対応を最初に固定する。
\text{状態}
\longleftrightarrow
\text{波動関数}
\qquad
\text{観測量}
\longleftrightarrow
\text{演算子}
\qquad
\text{エネルギー}
\longleftrightarrow
\text{Hamiltonian の固有値}
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直感的な説明
直感的には、波動関数は「電子の存在しやすさを後で計算できる地図」である。ただし、地図そのものが確率ではない。地図から確率密度を作り、領域にわたって積分して、初めて確率が得られる。
また、エネルギーは、波動関数を眺めるだけで読む数値ではない。分子の条件をまとめたハミルトニアンという演算子を作用させ、その波動関数がハミルトニアンに対して安定な形かどうかを調べる。
この直感を、線形代数の言葉で言い換えると分かりやすい。行列がベクトルへ作用したとき、向きが変わらず長さだけが変わる特別なベクトルが固有ベクトルである。同様に、ハミルトニアンが波動関数へ作用したとき、形が変わらず全体が定数倍になる特別な波動関数が定常状態である。その定数倍の係数がエネルギーである。
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厳密な説明: 状態、表現、観測量
厳密には、状態と波動関数は同一語ではない。状態は物理的な情報をもつ対象であり、波動関数は位置を基準にその状態を表した表現である。
一次元の一粒子を考える。位置を次の量とする。
x\ [\mathrm{m};\ \mathsf{L}]
位置表示の波動関数を次で表す。
\psi(x)\ [\mathrm{m^{-1/2}};\ \mathsf{L^{-1/2}}]
この単位は恣意的ではない。確率密度を次で定義するためである。
\rho(x)=|\psi(x)|^2,\qquad
\rho(x)\ [\mathrm{m^{-1}};\ \mathsf{L^{-1}}]
確率密度に長さを掛けると無次元の確率になる。
\Pr(a\le x\le b)=\int_a^b \rho(x)\,dx
=\int_a^b |\psi(x)|^2\,dx,
\qquad
\Pr\ [\mathrm{1};\ \mathsf{1}]
ここで、直感的説明で述べた「存在しやすさ」は、厳密には絶対値二乗と積分に現れる。波動関数そのものではなく、絶対値二乗が確率密度である。
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data/lecture/math/algebra/複素数と複素平面-講義.n.md
data/lecture/math/calculus/積分法の基本-講義.n.md
観測量を演算子で表す理由
観測量は、状態から数値を取り出す規則である。量子化学では、この規則を演算子として表す。
たとえば位置の演算子は、位置表示では関数に位置を掛ける作用として表せる。
\hat x\psi(x)=x\psi(x),
\qquad
\hat x\ [\mathrm{m};\ \mathsf{L}]
運動量の演算子は、位置表示では微分を含む。
\hat p=-i\hbar\frac{d}{dx},
\qquad
\hat p\ [\mathrm{kg\,m\,s^{-1}};\ \mathsf{MLT^{-1}}]
なぜ微分が現れるのか。直感的には、運動量は波の振動の細かさと対応するからである。波長が短いほど、位置に対する変化が急であり、微分で取り出される量が大きくなる。厳密には、平面波に微分演算子を作用させると同じ関数の定数倍が返るため、運動量の固有値を表せる。
\frac{d}{dx}e^{ikx}=ik e^{ikx}
この式で、微分は波の形を壊さず、係数だけを取り出している。これが、演算子を用いる理由である。
期待値は平均値である
波動関数が一つ与えられても、測定値が常に一つに決まるとは限らない。そのため、観測量の代表値として期待値を用いる。
位置の期待値は、確率密度を重みとした平均である。
\langle x\rangle=
\int_{-\infty}^{\infty} x|\psi(x)|^2\,dx,
\qquad
\langle x\rangle\ [\mathrm{m};\ \mathsf{L}]
一般の観測量では、対応する演算子を中央に置く。
\langle A\rangle=
\int \psi^*(x)\,\hat A\,\psi(x)\,dx
この式は、左から複素共役を掛けることで、複素数で表された状態から実際の測定値に対応する量を取り出す形である。演算子が適切な条件を満たすと、期待値は実数になる。
Hamiltonian はエネルギーの演算子である
ハミルトニアンは、エネルギーに対応する演算子である。一次元、一粒子、質量を次の量とし、ポテンシャルエネルギーを次の関数とする。
m\ [\mathrm{kg};\ \mathsf{M}],
\qquad
V(x)\ [\mathrm{J};\ \mathsf{ML^2T^{-2}}]
このとき、非相対論的なハミルトニアンは次である。
\hat H=-\frac{\hbar^2}{2m}\frac{d^2}{dx^2}+V(x),
\qquad
\hat H\ [\mathrm{J};\ \mathsf{ML^2T^{-2}}]
第一項は運動エネルギー、第二項はポテンシャルエネルギーに対応する。ここで換算Planck定数は次の次元をもつ。
\hbar\ [\mathrm{J\,s};\ \mathsf{ML^2T^{-1}}]
Schrodinger方程式の時間に依存しない形は次である。
\hat H\psi=E\psi,
\qquad
E\ [\mathrm{J};\ \mathsf{ML^2T^{-2}}]
これは「ハミルトニアンを作用させても形が変わらず、全体がエネルギー倍になる波動関数を探す」という固有値問題である。
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何が変わり、何が保存されるか
表現を変えると、波動関数の見た目は変わる。位置表示では位置の関数として表し、運動量表示では運動量の関数として表す。しかし、同じ状態を表している限り、測定される確率や期待値は保存される。
規格化では、波動関数全体の倍率を変える。一方で、規格化後には全空間での存在確率が一に保存される。
\int |\psi(x)|^2\,dx=1
ハミルトニアンを変えると、許される状態とエネルギーが変わる。分子の形、原子核の種類、外部電場が変わると、ポテンシャルエネルギーが変わり、したがってハミルトニアンも変わるからである。一方、ハミルトニアンの固有値問題として解くという見方は保存される。
具体例: 一次元の閉じ込めをどう読むか
電子が短い分子鎖に沿って動く粗い模型を考えると、電子はある長さの範囲に閉じ込められていると見なせる。このとき重要なのは、実在の分子を完全に再現することではない。境界条件が波動関数を選び、エネルギーを離散化するという対応を見ることである。
閉じ込められた範囲の長さを次とする。
L\ [\mathrm{m};\ \mathsf{L}],
\qquad
L>0
端で波動関数が消えるなら、許される波の形は端で節をもつものに限られる。この制約が、連続的に見えた波数を飛び飛びにする。詳しい計算は粒子箱モデルで扱う。
data/lecture/chemistry/theoretical/quantum-chemistry/粒子箱モデル-講義.n.md
見分け方
波動関数が出てきたら、まず「これは確率密度そのものではなく、確率密度を生む状態の表現である」と読む。
演算子が出てきたら、「この操作は状態からどの観測量を取り出すのか」と読む。
ハミルトニアンが出てきたら、「この分子条件で許される状態とエネルギーを選ぶ固有値問題である」と読む。
一言でいうと
量子化学の入口では、電子を軌道上の粒として追跡する発想から離れ、状態、波動関数、演算子、ハミルトニアンを対応づける。この対応が分かると、後の計算は「状態表現から確率密度を作る」「Hamiltonian の固有値問題としてエネルギーを求める」という二本柱で読める。